日中映画交流史 「日中合作映画の歴史と今後の可能性」 講演レポート
日中映画交流史 「日中合作映画の歴史と今後の可能性」 講演レポート
日本と中国の映画交流を振り返る
劉文兵氏が日中合作映画の歴史と可能性を解説
2018年は日中平和友好条約締結40周年であり、日中両国の政府は映画製作を通じた交流を促進するために、日中映画共同製作協定の締結に向けた準備を進めるなど、日本と中国の映画交流が新しい段階を迎えつつある。今回、文化庁の日中映画人交流事業の一環として、特集上映会が開催された。
その第1弾は 『さらば、わが愛/覇王別姫』(1993年)、『始皇帝暗殺』(1998年)の中国を代表する世界的巨匠チェン・カイコー監督を迎えた回顧上映「チェン・カイコー特集」が開催。第2弾となる今回は、日中映画交流史に名を刻んだ諸作品の特集上映「特集 日中の架け橋となった映画たち」として、2018年2月27日(火)に東京千代田区の神楽座において、ジョン・ウー監督 『レッドクリフ Part I』(2008年)、『レッドクリフ Part II -未来への最終決戦-』(2009年)とともに、佐藤純彌監督『敦煌』(1988年)の上映後に劉文兵氏による日中映画交流史の講演 「日中合作映画の歴史と今後の可能性」 が行われた。
⬜️ 日中合作映画の歴史
こんばんは。2017年11月にジョン・ウー監督『マンハント』、12月にチェン・カイコー監督『空海-KU-KAI-美しき王妃の謎』がそれぞれ中国で封切られて、日本では今月劇場公開されていますね。日中合作の製作モデルとして話題となっています。本日は日中合作映画の歴史と今後の可能性についてお話をさせていただきたいと思います。日中合作の歴史をたどりますと、1920年代にさかのぼることができます。当時の上海は東洋のハリウッドと呼ばれていまして、100にものぼる映画会社が上海に集中していました。そこで製作された映画は中国の国内市場のみならず、中国人が多く住む東南アジアへも配給されたので大きな映画マーケットでした。
その時代に多くの映画人は上海に渡り、中国映画にたずさわりました。カメラマンの川谷庄平をはじめとする複数の日本人のカメラマンが上海のスタジオで活躍をしていました。日本映画の上海ロケも頻繁に行われていて、中国映画に出たいと熱望する日本の役者も上海でそのチャンスをうかがっていました。みなさんは『上海バンスキング』(1984年)という映画をご覧になったことがあるかと思います。当時、あの舞台である上海では、新天地を切り拓こうとする日本人アーティストがたくさんおりました。中国という大きなマーケットに飛び込もうとする当時の状況は、まさに2018現在の日本の映画界と非常に似ていると思います。
中国初の本格的なトーキー映画は『雨過天青』(1931年)という作品ですが、日中合作の形で制作されていました。そのストーリーというのは、一人のモダンガールが色仕掛けで妻子ある男を誘惑するのです。その男も最初は堕落してしまうのですけれども、結局、自分の妻の元に戻るわけです。モダンガールが不幸になるストーリーなのですけれども、中国側の企画で監督をはじめ、メインスタッフや俳優さんは全員中国人ですが、カメラマンはヘンリー・小谷が担当をして、録音も日本の技術的なバックアップを受けていました。さらに、この映画は日本で撮影を行っているようです。フィルムは現存しておりませんが、瓦屋根や横開きの窓を見てみますと、日本で撮影されたシーンだと思われます。当時、日中双方の間でコーディネーターを務めていたのが川谷庄平さんなのです。日活出身のカメラマンで、1920年代の上海では二十数本の中国のサイレント映画のカメラを担当されていました。モダンガールを演じる主演は黄耐霜(ホワン・ナイシュワン)という女優さんです。この映画が公開された1931年6月頃の中国では、すでに日本の満州進出に反発した反日の気配がはじまっておりました。映画のキャンペーンの一環として、ハルピンを訪れた彼女もこの日本がらみの映画制作に参加したことで売国奴と罵られたということでした。
同年9月に満州事変が起きまして、日中合作の試みも絶たれてしまいます。そして、1937年に日中戦争がはじまりますと、日中のコラボレーションは満州映画協会という李香蘭(り・こうらん)のいる映画会社ですね。上海の中華電影という映画会社において行われていました。製作された映画は大東亜共栄圏を賛美するような映画でした。大日本映画社と上海の中華電影が合作した『狼火が上海に揚る』(1944年)ですね。監督は稲垣浩監督と中国の岳楓(ユー・フォン)監督なんですけれども、主演は坂東妻三郎と李麗華(リー・リーホワ)という女優さんです。初の本格的な日華合作映画といわれているのですけれども、それは日本のマスコミがそういう風に報じていたのです。この場合の「中国」は汪兆銘の率いる傀儡政権を意味するわけです。だから、国同士が戦争をしている最中でも合作映画が制作されることは今では想像しにくいのですけれども、そこに参加した中国側の映画会社にとっては大変難しい立場におかれたようです。終戦後、この映画に参加した中国側の俳優や監督、全員が「映画漢奸」という対日協力者、裏切り者という意味なんですけれども、そういう風に見なされて、上海にいられなくなって、ほとんど香港に逃れました。その後、1949年に中華人民共和国が成立しました。しかし、両国には国交さえなかったので、合作映画は30年間実現することはありませんでした。
⬜️ 『天平の甍』(1980)
国交回復後、『天平の甍』という映画が日中平和友好条約締結の直後の1979年に撮影されました。熊井啓監督の作品なのですが、中国の全面的な協力を得て中国大陸でロケーションを行った戦後初の中国ロケの日本映画です。井上靖が書き下ろした小説の「天平の甍」に基づいて描かれたものなのですけれども、主人公は中国の鑑真というお坊さまを主人公とした歴史ドラマなんです。それを実現するために、原作者の井上靖、彼が会長をつとめる日中交流協会、さらに熊井啓監督が8年の歳月をかけて、中国側と交渉した結果、ようやく実現できた企画なんですね。日中合作の中で、実は最も多かったのは、この井上靖の歴史小説を原作とした作品なのです。『天平の甍』と『敦煌』(1988年)もそうですね。そして、『ウォーリア&ウルフ(原題:狼災記』(2009年)という日中合作の映画です。中国大陸の悠久の歴史や文化を憧れの眼差しで描いた井上靖の世界は日中戦争を挟んだ近代史から遠く離れていて、日中間の政治的な部分や問題、歴史問題を引き起こすリスクが少ない安全パイだったからだと思います。
『天平の甍』では、中国側の助監督の楊静(ヤン・チン)さんは、戦時中に中国の大連で日本語教育を受けたとても日本語が上手な女優出身の映画監督です。昨年、私は彼女に北京でインタビューをした際に「田村高廣さん(鑑真を演じる主演男優)はお元気ですか?」と訊かれたのですけれども、「田村さんはもう亡くなられたのです」というと、その場で楊監督が泣き出してしまわれたんですね。田村さんと大変仲が良くて、たくさんの文通を私に見せてくれました。田村さんが亡くなられたことを知らなくて、大変ショックだった様子でした。
⬜️『未完の対局』(1982)
初の本格的な合作映画は、1982年に日中両国で同時公開された『未完の対局』という映画です。これは、日中の囲碁の名人の友情を大切にしたもので、日中戦争が国民に与えた影響の多大な苦しみを描いた作品なのです。近年の商業目的の合作映画とは違い、日中国交正常化10周年記念のイベントの一環として企画されたものです。日中の本格的な共同作業で1本の映画を作り上げるというプロセスの背後には、国交回復以降の両国の交流が非常に拡大していることを両国の一般国民の目に見えるようなビジュアルな形にしたいという双方の願望があったかと思われます。中国側が日本に合作映画の制作を呼びかけたわけです。その背景には、日本から最新の撮影機材を仕入れて、現場で日本映画の技術を学び、人材を育てたいという副次的な理由もあったのではないかと私は思います。実は、1981年当時に日中双方が話し合ったときの記録を入手しまして、それによりますと、中国側が以下のような要望をしていました。「主な機材、設備は日本から持ってきてほしい。新品であれば、仕事が終わったら中国側が買い上げる。車を使う場合、日本から持ってくるマイクロバスやワゴン車も安い値段で中国側に売り渡す」という項目が明記されていました。
また、佐藤純彌監督にお話をうかがったところ、『未完の対局』で中国の国内を移動するときには非常に細かい手続きが必要で大変面倒くさかったようです。撮影現場には、常にお目付け役がいて大変だったそうです。また、日中戦争の捉え方をめぐって双方の意見が異なって、5人のシナリオライターが入れ替わる形で脚本が何度も書き直されました。歴史の捉え方ばかりではなくて、双方のスタッフやキャストのコミュニケーションの問題や意見の相違、すれ違いもずい分とあったようです。この映画の中国版の冒頭には、5人の脚本家の名前が出ています。大映の専務が『未完の対局』というタイトルがつまらないことから、興行的な見地で「日はまた昇る」に変更をしたいと中国側に申し入れたのです。そうしますと、日の丸が再び中国にひるがえることを連想させてしまうという理由で反対されました。また、偶然なのですけれども、当初日本側は封切りの予定日を9月18日にしていました9月18日というのは満州事変が起きた日なんですよ。だから、918といえば、満州事変ですから、それも中国側に指摘を受けました。それを受けて、佐藤純彌監督は「日の丸」や「9月18日」を見るだけで血の涙を流す中国の方が大勢いるという現実に対して、僕たちの配慮の至らなさを痛感させられました」と私の取材中におっしゃっていました。まだ中学生だった私が、この映画を中国で観たときに、その冒頭に流れる林光さんが作曲した音楽が大好きでした。しかし、林光とふた文字なので、てっきり中国人だと思い込んでいたんですね。日本に来て10年ほど前に林光さんを取材することが出来ました。林さんは1960年代の中国の副総理・陳毅のご招待で蘇州と上海を訪れたことがありまして、その記憶に基づいて作曲をしたとおっしゃられていました。
⬜️『敦煌』(1988)
今日、みなさんがご覧になられました『敦煌』です。これは、日中合作のピークとなった作品だと思います。『未完の対局』に続いて、佐藤純彌監督がこの映画のメガホンを取りました。『未完の対局』は政治キャンペーンの一環として、『敦煌』は商業的興行的なヒットを狙った作品として、それぞれに成功をおさめたと私は思います。佐藤純彌監督は、中国映画界で絶大な信頼を得ていて、一般の中国人の間でもビックネームでした。それは、前回上映した『君よ憤怒の河を渉れ』(1976年)のメガホンも取っていたからなのです。私は『未完の対局』のシナリオをお書きになられた脚本家の安倍徹郎さんにインタビューをしたことがあります。そのときに聴いた話なのですけれども、1981年に安倍さんと佐藤純彌監督とともに中国を訪れたそうです。その帰りにお土産を買うために北京のメインストリートである王府井のショッピングセンターに行ったところ、たまたま休日で買い物客でごった返していて、売り場のカウンターになかなか近づくことが出来なかったんですね。でも、飛行機の時間も迫ってきているので、通訳の方が周囲の買い物客に向かって、大声で「この方はですね、『君よ憤怒の河を渉れ』の佐藤純彌監督です。道を開けてください」と叫ぶと、さっと通路が出来たそうなのです。それを見た安倍さんは「すごいなあ」と驚いて目を見張ったというのです。佐藤純彌監督にそのエピソードについて私が訊ねましたら、ゲラゲラ笑って「多分、あった」とおっしゃられていました。私は佐藤純彌監督には何度も取材をさせていただきましたが、そのときに感じたのは、佐藤監督は細かいことにあまりこだわらずに、自分を押し通そうとはしない柔軟性のある方だということでした。そのあたりは、黒澤明監督や大島渚監督とは違うんですね。先日、インタビューをしました金子修介監督も今中国映画の演出を手がけていらっしゃいますけれども、やはり佐藤純彌監督と同じタイプの監督だという風に感じました。
『敦煌』は1987年のバブル期に日本側が45億円を投じて製作したもので、中国側の出資はおそらく現物出資というものでしょう。衣装や大道具、馬などの物質的な支援を一定の金額に換算するというスタイルです。例えば、長期ロケに備えて中国側が日本人スタッフやキャストの専用ホテルを敦煌に建設しました。日本側は4億円を投じて敦煌城のオープンセットを6ヶ月かけて作りました。400メートル四方のお城の中には、商店街や住宅街、お寺などが原寸通りの同じ大きさで再現されました。ラストの敦煌城をめぐる攻防戦や焼き討ちといったクライマックスのシーンにおいて、このセットを全て燃やしてしまう予定でした。しかし、中国側が観光資源として残したいという要望で双方はもめまして、中国側の担当者が「燃やすのであれば、出たゴミは全て日本に持ち帰ってくれ」と主張をしたためにセットの一部しか燃やさなかったそうです。チェン・カイコー監督の『空海-KU-KAI-美しき王妃の謎』が公開中ですけれども、撮影のために作られた唐の時代のオープンセットは観光用のテーマパークとして残されるようですね。
『敦煌』は友好のシンボルだけではなくて、お互いの映画市場を意識した娯楽作品として商業目的で製作された最初の日中の合作映画だと思います。1990年代以降や2000年代以降になりますと、日中の映画界の人的交流はさらに拡大をして、様々なレベルでのコラボレーションが行われていました。今回の上映会にて上映されたチェン・カイコー監督『始皇帝暗殺』や、『レッド・クリフ』、高倉健主演のチャン・イーモー監督『単騎、千里を走る』(2006年)はその代表であると思います。1980年代当時の『未完の対局』や『敦煌』などの合作映画の制作過程においては、日本側の監督やスタッフがイニシアチブを握っていました。それは、両国の映画のレベルの違いや力量の差によるものだと思います。一方、近年の日中合作映画においては、その力関係が大きく変わってきているように思われます。例えば、『マンハント』や『空海-KU-KAI-美しき王妃の謎』は日本側主導の映画の枠を破って、制作に関わる日中双方のスタッフが対等の立場で協力をし合い、日本的な要素を取捨選択した新しいタイプの中国映画が生み出された思います。ご静聴どうもありがとうございました。
⬜️ 劉文兵プロフィール
1967年中国山東省生まれ。2004年東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論コース博士課程修了。博士(学術)。日本学術振興会外国人特別研究員を経て、現在、東京大学学術研究員。早稲田大学ほか非常勤講師。2015年度日本映画ペンクラブ賞・奨励賞を受賞。主な著書に「日中映画交流史」(東京大学出版会)、「証言 日中映画人交流」(集英社新書)など。
◼️『敦煌』(1988)
戦乱の世、11世紀のシルクロードで、敦煌の文化遺産を守ろうとした青年の活躍を描く井上靖原作の同名小説の映画化。脚本は吉田剛と佐藤純彌が共同で執筆。監督は同作の佐藤純彌監督、撮影は椎塚彰が担当。
《ストーリー》
11世紀の宗。科挙の試験に落ちた趙行徳(佐藤浩市)は、街で西夏の女(三田佳子)を助けた礼として西夏への通行証をもらった。西夏の文字に興味をもった趙は西域へと旅立つ。灼熱の砂漠を尉遅光の隊商と共に歩いていると、途中で西夏軍漢人部隊の兵士狩りに会い無理矢理入れられてしまう。隊長の朱王礼(西田敏行)は文字の読める趙を重用。漢人部隊がウイグルを攻略した際趙は美しい王女ツルピア(中川安奈)と知り合い恋におちる。
監督:佐藤純彌
製作総指揮:徳間康快
脚本:吉田剛
音楽:佐藤勝、佐藤純彌
撮影:椎塚彰
出演:西田敏行、佐藤浩市、渡瀬恒彦、柄本明、田村高廣、新藤栄作、中川安奈、三田佳子
製作年:1988年
製作国:日本
製作:大映、電通
配給:東宝
上映時間:143分
◼️ 中国映画祭「電影2018」
電影2018(国際交流基金)
日中平和友好条約締結 40周年記念 映画上映会(公益財団法人ユニジャパン)
[文:おくの ゆか/取材:fm GIG シネマ侍東京代行]
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