「尾道映画祭2018」大林宣彦監督記者会見レポート

©︎2018 fm GIG Cinema-Samurai

「尾道映画祭2018」大林宣彦監督記者会見レポート


映画作家・大林宣彦監督の映画作りの人生にふれる「尾道映画祭2018」 

映画『花筐/HANAGATAMI』は「風化しないジャーナリズム」


第2回「尾道映画祭2018」が2018年2月23日(金)〜25日(日)に広島・尾道市にて開催された。初日の2月23日(金)に、しまなみ交流会館にて、映画作家・大林宣彦監督による記者会見が行われた。

◼️「尾道映画祭2018」は奇跡のように幸せなこと


――大林宣彦監督からお話をいただきたいと思います。


⬜️「平和孤児」として、あと30年は映画を撮って暮らす

大林宣彦です。尾道出身。正しくいいますと、岡山大学医学部の研究室に父親がおりまして、その研究室の社宅にいたのですけれども、私が誕生するということで母親・村上千秋の実家である尾道に帰ってきて、現実には尾道で生まれたわけです。仮に政治家になったとすれば、本籍は岡山だといわなければいけないのでしょうけれども、尾道生まれの大林宣彦だと自覚をしております。ただいま80歳になったところです。今年(2018年)の1月9日で80(歳)になりまして、よもや80まで、このように生を長らえようとは思っていませんでした。逆にいえば、何歳で死ぬとも思っていなかったので、意識の中では永遠に生き続けているつもりでおりました。それが一昨年2016年の8月に肺がん第4ステージ余命半年という診断を受けまして、はじめて「おお、わが身にも死というものが現実に近づいたのか」ということを自覚したわけです。しかしながら、もはや余命3ヶ月を1年5ヶ月以上長生きしていますし、あと30年は映画を撮って暮らそうと吹聴をしておりますので、まだまだ死ぬつもりは一切ありません。

◻️子どもは大人のやることなすことを観察している

というのは、生きなくてはならないと思っていたからであります。それは何よりも、私があの太平洋戦争の戦争中は純粋な軍国少年であったと。「子どもだから」と、大人が「何が分かるんだ」とたかをくくりますが、子どもというのは、私自身もそうでしたが、本当に大人のやることなすことをしっかりと観察しております。なぜかというと、大人たちが作る世界で自分はこれから生きなければならないという運命を子どもはしっかりと知っておりますから、「良い大人がいれば自分の未来が大丈夫だし、駄目な大人がいれば自分の未来は危ういぞ」ということを誰よりも感じているのが子どもというものです。そういうことの中で真珠湾攻撃から広島や長崎の原子爆弾までを体験してしまい、当然そこでも、私が生きた大日本帝国の昭和の時代は終わり、私も大人が殺してくれるか、あるいは、自決をしなければならないか。しかし、自決の仕方も分からない。まだ満で7歳でしたからね。誰かが殺してくれるかと期待をしておりましたが、大人たちにそんな気配はなくて、「平和じゃ、平和じゃ」といって、ヤミ米かついで歩き回っている。これは大変な裏切りでありましてね。無理矢理、生き延びさせられてしまった。しかも、僕たちの年代は、もちろん戦前派ではないし、戦中派でもない。じゃあ、戦後派かというと、戦後派に一番なれなかった子どもなんですよ。敗戦後の日本人の大人というのが、「嘘つきばかりで、誰も信用する人間がいないぞ」というのが、純粋な軍国少年であった、子どもであった私の感想です。


◻️「平和日本」をどうやって作れば良いのか一人何役もやってきた世代

しかしながら、自分が大人になっていくにつれて、日本の歴史ではじめて「平和日本」という訳の分からないものを僕たちが作らなければいけないという責務によって生きざる負えなかった。これが私がいう昭和10年から15年くらいの間の子どもでしょうかね。戦前・戦中派ではなく、戦後派にもならなくて、敗戦後の大人たちがみんな平和難民になっている中を「平和孤児」として生きざる負えなかった子どもたち。昭和10年の寺山修司から、昭和15年のミッキー・カーチスくらいまでがその世代で、そこに立川談志であるとか、阿久悠であるとか、和田誠であるとか、そういう世代がひしめいていて、訳も分からず「平和日本」をどうやって作れば良いのかということを一人何役もやってきたというのが私たちの世代であります。語り出せば徹夜になりますので、ここでいったんマイクを置きましょうか。


◼️Q & A:映画作家として個人的に映画を作ることに決めた


――今回、尾道で開かれる「尾道映画祭2018」を大林監督はどういう想いで迎えられていますか。


⬜️ 自分のやりたいことを自分のやりたいように描いてきた

これは、今日、本当に奇跡が起きたのではないかと。私の故郷のこの尾道というのは、良くも悪くも商業都市でしてね。これは、大阪に行けば「儲かりまっか」が「おはよう」と同じ意味になるのと同じで、尾道でも古くからの港町で、商業都市で、それが根っこから染みついていますから、当然、映画産業というのも、世の中的にいえば、会社が儲かり、あるいは、どこかでロケをすれば、そのおかげで観光客が増えるということが良いこととされるという、そういう制度の中で映画があるわけです。私は、そういう制度から逃れたくて、映画監督とは名乗らないで、「映画作家」と称して個人的に映画を作るということを決めた人間ですから、平たくいえば、ずっとアマチュアで映画を作ってきたわけですね。当然、それは、東宝映画を作る黒澤(明)さんとも、松竹映画を作る小津(安二郎)さんとも、大映映画を作る名人の溝口(健二)さんとも違う、自分のやりたいことを自分がやりたいように一生懸命、正直に描いていく。やりたいこととは何かといえば、あの戦争中の嫌な感じの中で生きていた自分の想いを、それを直ぐに忘れてしまった日本人の大人たちや日本人の後輩たちに伝えるのが私たち「平和孤児」の役割だろうと。そういう風に思っていますので、そういう映画ばかりをこしらえてきました。したがって、同世代の私と同世代の人たちが、「こんなものは映画じゃないぞ」ということで、平たくいうと、大林映画は「こんなものは映画じゃない」という象徴のようなものでもあったわけです。

◻️映画こそが「風化しないジャーナリズム」

ところが、なぜか今回作った『花筐/HANAGATAMI』(2017年)という映画は、急に受賞ラッシュになりまして、私は賞というものとはほとんど縁がない人間ですけれども、あっちこっちで賞をいただく。それも、昨年2017年度の映画の中で10本選んで評価するということの中には、なかなか入りづらいと。むしろ、「今世紀に1本の映画」ではないか、「人生にみる1本」といえば、これではないかという風な評価をされて。しかも、いまだ好きだとも嫌いだとも、良い映画だとも悪い映画だとも、そういう観点からこの映画を語った人にはほとんど私は会ったことがなくて、なんだか分からないけれども、「生きている今、この映画に出会ったことで、自分が自分になった」という風な映画として受けとめられている。ということは、私が常にいっている「映画こそは風化しないジャーナリズムである」。そういうことのためだけに私は映画を作り続けてきた。そのことがようやく時をへて、人々がこの作品を、映画を超えて、ある時代を反映する何か。その「何かは観た自分が考えねばならないぞ」という、そういうものになったのかと。


⬜️ 未来を生きる子どもたちに観てほしい

したがって、この商業都市尾道では、私の作る映画などは、「存在の理由がよく分からない」ということがあったと思います。それが今回は、この映画祭を企画してくれた尾道の知性が大林宣彦の本当のフィロソフィーを、映画作りの人生をきちんと何よりも故郷の人に分かって愛してほしいという風な想いから作られた映画祭であると。私は、儲けるために映画を作ったことはなく、あくまでも生きている以上は、これを語らなくてはということで映画を作り続けてきたわけです。本当は、お金などはいただかないで、とくに未来を生きる子どもたちに観てほしいということで、この映画も実は子どもたちを相手にこしらえた映画で、なんとか尾道の小・中・高校生たちみんなに観てほしいなと思っていたのですけれども。なかなか、今封切ったばかりの映画ですから、やはりそれは映画興行の常識としては、そういうわけにはいかないという風なことの中で、尾道市民の市長さんはじめ、市長さんは今、お忙しい中で映画をご覧になっていると思いますけれども、そういう人たちの強い意志によって、子どもたちには招待をして観てもらおうと。その分の興行的な部分は、協賛金で、市民の善意で「未来を生きる子どもたちのために協賛するぞ」という風なことで、本当の私の意に即した映画のあり方、映画を作ること、観てもらうことということの姿がようやく80の歳にして、この尾道で実現したということは、私にとってはもちろん、尾道にとっても快挙であるだろう。

しかし、そうなってしまった「今とは、何であるのか」ということを考えると、それは、とっても恐ろしい戦争がまた直ぐそこに近づいている時代。そういう時代の皮膚感覚にみなさんが心底何かを感じていらっしゃって、この映画をご覧になると、「ああ、それは分かる、そのこと」「いや、まだ分からないけれども、それは自分が考えて、自分が行動をしなければいけないことだけだったのは分かるから、この映画と一緒に自分も生きて考えよう」と、子どもたちは、この映画を観ることで一緒に考えること、もっと知ることができる。それを知った上で、自分たちのことを一生懸命に考えようという、まさに「風化しないジャーナリズム」という一つの象徴になりえたという世の流れと、それをちゃんと受けとめて、こういう映画祭にしてくださった。この映画祭も、一つのジャーナリズムとして、今日、幕を開けたところというのが、私にとっては奇跡のように幸せなことであるという風に思っております。


――終戦のときに7歳だった大林監督は、原爆が投下されたときには、どちらにいらっしゃって、恐ろしさであったり、悲しさであったり、どんなご記憶があったでしょうか。また今後、ご自身が体験した原爆などを表現するときに、今までとは、どんな違った部分があるかも教えてください。


◻️尾道の線路にもたくさんの死体が横たわっていた

私自身の原爆体験は、原爆とは直接体験をしていません。2週間前だと記憶をしているのですが、広島に駐屯していた軍医大尉であった父親を母と二人で訪ねて、母が尾道から持って行った蒸かし芋を父親と三人で、ちょうど今の原爆ドームの前の川に続く石段のところに座って食べたという記憶があります。きっと、2週間ほど前に父親が九州に転勤をして、私も尾道に帰っていたので、私自身は原爆体験はありません。ただ、私の親しい人や遺族にあたるような仲間が原爆で亡くなったり、傷ついたり、いろいろしたという話として聞きました。尾道は、ちょうどその頃だと今の在来線で2時間半から3時間くらいでしたかね。原爆投下の3、4日くらい後からでしょうか、尾道の私の実家は線路の直ぐ上にあるのですけれども、見下ろすと、その線路にたくさん死体が横たわっていました。当時のことだから、放ったらかしです。上にムシロか、たまに綺麗なゴザが置いてあるだけで、私たちは缶詰の空き缶を持っていって、その辺に散らばっている肉片をその空き缶に入れたりして遊んでいました。禁じられた遊びというか、それが当時の子どもの日常ですから、どういう気持ちであったのかは、今では分かりませんけれども、葬(とむら)いの気持ちもあり、でも、大きくいえば、子どもらしい遊びでしょうかね。学校では、いち早くそのニュースが伝わってきて、先生が黒板に絵をお描きになって、「普通の爆弾はこう落ちて、下からこう開くけれども」、「この新爆弾は」とおっしゃっていましたね、「新しい爆弾は空から落ちて途中で開いて傘のようにこうなるから、広い範囲がやられて広島は全滅したんだぞ」と。そういう話は学校で直ぐに教わりました。尾道中のわが家の爺さんたちも、みんな広島に駆り出されていきましたけれども、ものの一週間もたたないうちにみんな帰ってきました。だから、原爆がどのような形で落ちて、どのようなことになったかという現実は情報としては全く入ってこなかったです。

◻️映画を使って平和をたぐり寄せる作業をやる

しかも、直ぐに終戦になりましたけれども、私たちの言葉でいえば、敗戦しましたけれども、敗戦するやいなや、「よく効く頭痛薬ピカドン」であるとか、後には「原爆もなか」「原爆せんべい」とか、今でいう観光資源ですね、そういうものまで売り出されて、「原爆アイスクリーム」といえば何かといえば、小豆の数が多いんだとか。これは、結局、占領軍はもちろん、日本政府も被曝の実態については誰も教えてくれなかったし、被曝者自身は、被曝は伝染するといわれていましたから、口をつぐんで語られなかったりするので、原爆の恐ろしさだけは知っているけれども、巨大な威力だけは知っているけれども、その本当の恐ろしさや惨たらしさは、実は、ほとんどの人が知らないまま日本は敗戦を迎えてしまったという実態があるわけですね。今もあるんですかね、「原爆せんべい」とか、「原爆もなか」というのは。もう、聞きませんか。なくなっていれば良いですけれどもね。そういうことと一緒に、私が敗戦後の大人たちが信用できなかったことの一つでもあるわけですけれども。当時は野球といえば巨人阪神で、私は巨人のファンでしたけれども、広島に広島カープという球団ができて、「おお、あの広島に球団ができたぞ」といっていると、大巨人が広島に来るという、そのリスペクトとして、「巨人軍の原爆打線が来るぞ」という迎え方を当時の我われの身近にある新聞は語っておりました。まあ、訳の分からない敗戦後でしたよ。だから、原爆を描くということは、私にとっては敗戦のおさらいと。しかも、敗戦というのは、戦争がまず起きるわけですから、スゴロクのあがり方を逆にたどっていって、なぜ原爆が落ちたのかということの中から、真珠湾攻撃、あるいは、日中戦争、日清日露とたどっていく。そうすると、結局、日本でいえば戊辰戦争、明治維新から語らないと原爆も描けないだろうと。私は原爆を描くこと自体が目的ではなくて、なぜ原爆に至る道筋を人間がたどったかということを描くことが、政治家でも運動家でもないアーティストとしての私の仕事だと思っておりますので、先ほどもいいましたように、映画の力は歴史を変えることはできないが、歴史の未来を変える力は、映画にこそある。アートにこそあると思っていますので、映画を作るのではなく、映画を使って平和な時代をたぐりよせる作業をやることが7歳で殺されないで、自決もできなかった自分が今生き延びている理由だろうなと。

◻️がんはゼロになり、人生唯一の病気は老いしかない

そんなことで、ここまで生きて「がんごときに殺される必要は、理由は何もないぞ」という反発がすごくあったりもしましたので、がんも引っ込んでくれたみたいで、今現在は、がんの数値が4,000以上あったんです。ここへ来る3日前に測ったら4.5です。5.0だとゼロというのと同じなんです。だから、もう、がんはゼロになったという風に考えても良いのですが、人生唯一の病気は、もはや老いしかないんですね。がんは治したんですが、その治療を続けるには体力がいるんです。化学療法ですから、それに耐える肉体を持たなくてはいけないと。その老いとの闘いで、今私たちは病気では死ななくなりましたから、後は自らを鍛えて、あと30年は映画を作ろうかと今は決意をしているという80歳でございます。それが原爆に対しての私の実感です。

⬜️やり残した仕事は、原子爆弾ときちんと向き合うこと

そういうことをふまえた上でのやり残した仕事というのは、やっぱり原子爆弾ときちんと向き合うことしかない。原爆投下から70年を過ぎた今でも、世界中でまだ原子爆弾というものが解明されていないんです。だから、きっちり原子爆弾というものと向き合って、その正体を見つけなくてはいけないと思っているのです。この日本で、例えば、文学の方で原子爆弾の文学は、日本でもまだ成功はしていない。というのは、私たちは政治家でも、経済家でもないものですから、人が原子力を愛することは人類にとって良いことなのか、悲しむべきことなのかを考える人間です。あの戦争中も日本の庶民というのは、当然、大日本帝国の国民ですから、口に出す、表に出す表現は全員が日本勝ち敵負けるという以上に、戦争が早く終わってほしいなと思っていたのです。実際に原爆の被曝にあってみると、直ぐ横にいる仲間や兄弟や家族があまりにも人とはいえない尊厳などまるでない無力なみすぼらしい姿になっている。こういう人間の尊厳をなくすようなことをした爆弾を落とした敵国だけは何とか自分たちが潰さなければいけない。原爆に関してだけは、みんなが好戦的になってしまった。か弱い戦争なんか嫌だと思っていた国民までが、広島の人たちまでが原爆を投下した国をやっつけるまでは、戦争を終わらせてはいけないと思ってしまった。だから、原爆の文学も優れた文学がたくさんありますが、みんな被害者の文学なんですね。それでは、まだ駄目で、私たち表現者にとっては、被害者でも、加害者でもなく、原爆自身が人間にとっていかなるものなのかを考えるのが本当の平和を導くための原爆文学でもあり、原爆映画でもあるはずだけれども、そういうものが誕生しないまま、今に至っている。

◻️影響を受けた新藤兼人監督の『原爆の子』のワンカット

新藤兼人さんがようやく日本が独立した後、1952年に日本の国家もGHQ、マッカーサーたちの占領軍の総司令部も許さなかった原爆、被曝の映画をはじめて独立プロでお作りになるわけです(1952年に『原爆の子』を発表し、1953年にカンヌ国際映画祭に出品)。そのときに広島のみなさんはぜひ誇りに思って、そして、検証もしてほしいのですが、新藤さんは「あのピカとドンの間で、無垢な汚れなき処女たちが全裸で舞うようにもだえている」と。そのことによって、人類の愚かしさと悲しさを描こうとされたのですね。その話を聞いた広島市内のある女学校の校長先生が、「じゃあ、わが校の女学生を全員全裸で出します」と約束したという話が尾道にも伝わってきて、「映画の力ってすごいなあ」と。ちょうど僕が同じ年頃ですからね、そういう女生徒がみんな裸になって映画に出るのか、映画ってすごいものだなということで、多分、私がその後、映画作家として誇りをもって、勇気をもって、その仕事をやろうと思った一つの幼少時のきっかけにもなったことなんです。15分くらいそういうシーンがあったと記憶しているんですよ。本当に全裸の処女たちがバレエを踊るようにもだえて、その中をピカとドンと崩れていくガレキが。この間、見直したら、ラストにワンカットだけでしたね。カットした形跡もないから、これは記憶の操作で、私の記憶の中でそれが永遠に引きのばされた。また、それが映画というものの良さで、映画は決してリアルな記録ではなくて、人々の記憶になる。たった、ワンカットが私の中では15分のシーンになって記憶されている。それが私にとっての原爆のしたたかな認識にもなっている。その新藤さんが晩年、「私に20億、たった20億あれば、あの原爆のピカとドンの間の2秒間を2時間に引きのばして映画にする」と。こんな映画が実現していたら、世界の財産になる素晴らしい原爆を考える、体験する映画になったはずですが、「たった20億」と新藤さんはおっしゃるけれども、新藤さんも私も、「たった」といえるのは2千円か、せいぜい2万円で、20億なんてお金は生涯手にしたこともないですよ。でも、世の中には、20億くらいはコロコロ転がっているわけで、ただそういう転がっているお金を扱っている人たちは、決してそういう映画にはお金を出さない。わが妻といつもいっているように、「映画は自分のお金で作らなくては駄目だ」「人のお金で作ったのでは、自分の映画はできないぞ」と。「アマチュアで良いじゃないか」「アマチュアだからこそ、自分の映画が描けるぞ」と。

◻️黒澤明監督はアマチュアになって正直に自身のフィロソフィーを映画化

アマチュアというと、みなさん日本では、プロが偉くてアマチュアはプロじゃないものだという風にいわれてるのですが、あの大監督の黒澤明監督、「世界のクロサワ」といわれる人が晩年、ちょうど父親と息子のような年頃で可愛がっていただきましたけれども。あるとき、私と二人だけのときに、こんなことをおっしゃいましたよ。「大林くんなら分かるだろうけれども、俺は絵描きになりたいけれども、絵では食っていけないから、当時は映画監督なら食えるから映画監督になったら、映画も面白くて俺もずい分と作ったけれども、俺は東宝の社員だろ。だから、東宝から与えられる企画はこなさなければいけない。しかも、東宝を設けさせなくてはいけないし、なかなか自分の映画を作るわけにはいかない。でも、自分には自分の作りたい映画があるから、無理してそれを作ると時間もかかる。金もオーバーするというので、結局、体良くいえば、俺は東宝をクビになって、黒澤プロという自分のプロダクションを作った。これはきみと同じアマチュアになったということなんだよ。でも、アマチュアになって良かったなあ。俺はアマチュアになったからこそ、もう誰のためでもない自分のため、そして、自分の映画を愛して理解をしてくれる人のためだけに一生懸命、正直に俺のフィロソフィー、考えを映画にできるんだぞ」と、「良かったなあ」といわれたアマチュア黒澤明の作品が、私もそこにメイキングをキャメラを持って参加をさせてもらった『夢』(1990年)という映画で、日本の映画の歴史ではじめてこの『夢』で原子力発電の事故であるとか、あるいは、アメリカの兵隊さんのハワイでの経験談とか、あるいは、日本の今や失われた師弟関係の中にある礼儀作法であるとか、そんな風なことばかりを晩年の黒澤さんは作られたというのは、すべて黒澤アマチュア映画であったからできたという意味で、私はずっとアマチュアでやってきたということです。

◻️父の言葉「仲間を救い、敵の命も救うことは医学のつとめ」

これも、ひと言でいえば、私の父親が戦争に取られましてね、「取られた」と私は思っていたんですよ。そうしたら、この間、尾道の古い実家から、父親が残した自分史というのでしょうか、つい半年くらい前から見つかりはじめて。そうすると、父親は戦争に志願をして行っているんですよ。岡山大学を首席のような状態で出て、研究室に将来を属望されて入って、すでにその時に神辺の病院の医院長にまでなっていたのですけれども、そこで日中戦争がはじまって、ちょうど、「花筐」(1937年)の檀一雄さんと同じ歳に戦争に行くわけです。それも志願をして行っているわけですね。「赤紙をもらって戦争に行くと、弾除けの消耗品でしかない」と。「それは嫌である。医者として戦地に行けば、傷ついた仲間を救うこともできる。どうかしたら、敵の命も救うことができるかもしれない。それが医学のつとめではないか」ということで、医者として志願をして。その父親にあててお袋が送った私の真珠湾攻撃の万歳という絵であるとか。その私の描いた子どもの絵でも、もう戦争が終わる頃には、逆に日本軍が負けて私自身も血だらけになって、「助けて」といって逃げている絵まで描いているから。大人たちがそんなことをいったら、非国民として罰せられますが、子どもだから自由に描けた。逆にいえば、子どもだからこそ、敗戦の実態もよく知っていた。そして、敗戦になれば、言葉は知りませんでしたが、「男は撲殺、女は強姦ということが現実に起きるぞ」ということぐらいは、もう知っておりました。というか、感じておりましたね。

◻️渡辺白泉の「戦争が廊下の奥に立つてゐた」

というのは、「戦争が廊下の奥に立つてゐた」という戦争中に左翼系の俳人が残した俳句があるんです。そんなことは、敗戦後も忘れられていたのですけれども。なぜかというと、戦争中に「日本勝った敵負けた」という戦意高揚の俳句を書いていた俳諧の重鎮たちが敗戦後もそのまま帰ってきて、そういう左翼系の人たちを追い出してしまったので、その人たちのことは名前も忘れられているのですが、渡辺白泉という人だということをつい最近知りました。ということは、いつの間にか、その俳句が私の目に、耳に、心に届きはじめたということは、誰かがその詩集を再版したり、その人の記憶に残っているものを昇華したりしはじめたということは、その中全体のジャーナリズムがどこかあの時代のヒリヒリ感を伝えようとして、渡辺白泉がよみがえり、そして、それを知った私自身も、「ああ、知っているぞ。戦争中はこうだった」と思い当たるんですね。当時は大家族で、無人の階段や廊下がたくさんあって。ふと、そちらを見ると、光と陰の淡いの中に戦争がいるんです。その戦争とは、隣の鳥屋のおじちゃんだったり、「満州で死んだのよ」といわれたら、そのおじちゃんが立っているんです。あるいは、肺病やみで非国民で戦争に行けないからということで蔑まれていたお兄ちゃんが汽車に飛び込んで死んだと、そうすると、そのお兄ちゃんもそこにいます。それだけではなくて、まだ子どもである僕までが爆弾三勇士の頭に立って敵に飛び込んでいくと思っていると僕も座っているんです。だから、当時10人くらいの知っている名前の人がいつもそういう状態だった。自分も含めて。

◻️あの戦争を体験したから、私は映画を撮っていた

僕は本当に生きている人、本当に死んでしまった人と触れ合ったことがない子どもだったんじゃないか。つまり、気配の中に僕がおじちゃんがここにいるなと思えばいてくれるし、いないなと僕が忘れているといなくなっている。その気配の中で生きてきた子だからこそ、敗戦後も僕が作る映画はなぜか生きていると信じている人こそ亡霊のようで、死んでしまった人がいつも出てくるのですけれども。死んでしまった人こそがリアリティがあって、実際に生きているという映画ばかりを作ってきたということも、ジャンルは違えども、あの戦争体験をなんとか伝えたいということで僕は映画を作ってきたんだなということがようやく理解されて。そして、3.11は僕たちにとっては、あの間違った敗戦、モノカネづくめの敗戦をやり直す日本再生のチャンスであるという風に受けとったので、その辺から、ようやく少し正直に戦争について考え直そうではないか、学び直そうではないかということで作りはじめたのが、『この空の花-長岡花火物語』(2011年)からはじまる作品で、その辺から世の中のみなさんが「大林が急に戦争の映画を撮りはじめた」と。しかし、私にとってみれば、そうではなくて、本来、戦争を体験したから私は映画を撮っていたわけであって、その私の正体がより自然に、素直に映画の中で表現できるようになってきたというのが、3.11以降ではないか。それが『花筐/HANAGATAMI』という劇映画に結晶する時期になると、世の中の人がみんなそういうヒリヒリ感、「戦争が廊下の奥に立つてゐた」という皮膚感覚をみんなが持つようになったので、この映画が映画を超えた一つのまさに「風化するジャーナリズム」として成り立ったのではないか。さらにそこで、私自身が死んでしまえばめでたく終わったのですが、まだ生きています。生きている以上は、平和を映画を作ってではなく、映画を使って私が生きている意味を、戦争の意味を考えなければいけないというと、最後に残るテーマは新藤兼人さんですら実現できなかった「原子爆弾の実態」というのを描かなくてはならないなと思っているというのが二つ目の答えになるでしょうか。

――次回作の構想などがあればテーマも含めて大林監督の中で決まっていれば教えてください。


◻️僕たちの過去は変えられないけれども、あなたたちの歴史は変えられる

映画というのはね、今の状況だと、平たくいうと、「新しい映画ができれば、直ぐに配給しますよ」「配給したいですよ」といってくださる方が多いのですが、配給するための映画を作るとなると、なかなかそう簡単には先に進まない。やっぱり、映画というのは、自分のお金で作らなくてはいけないものなんでしょう。それでも、そういう映画がほしいという人がいらっしゃるので、2、3本は映画を作ってくださいという話も来ているのですが、私の映画というのはジャーナリズムと同じで、出来上がるまでどういう映画になるのか分からないんです。そうすると、みなさん不安なんでしょうね。だから、なかなか次回作がこれだと、こういう映画ですと発表できない状態なのです。しかし、30年生きているということは、少なくとも10年は生きるだろうから、少なくとも新藤さんの歳までは生きなければいけないから、私の心の中で決めていることは、先ほどいったように「原子爆弾に向き合う」ところまでいきたい。

しかし、私がもうこういう身体ですから、できないとすれば、大林チルドレンと自らいってくれている若い現代の日本映画を支えている40代、50代の作家たち、例えば、手塚眞くんがこんなことをいっていました。彼も、幼い頃から8ミリで映画を撮っていたのですが、その頃は、「大林さんがうらやましい。大林さんはキャメラを持てば、戦争体験があるから、テーマがあるから、映画が撮れますけれども、僕は戦争体験もないし、テーマが何もないから、作る映画がないんです。」と。才能がある人だったのにあんまり映画を撮らないできてしまったんですね。ところが、最近になって、「大林さん、僕にも戦争が見えてきました。大林さんが知っている過去の戦争ではないけれども、これから来る戦争は僕の肌にもピリピリ感じます。僕たちは戦争では戦前派になりました。だから、テーマができたので映画をバリバリ撮ります」と。これは、手塚くんもはじめ、犬童(一心)くんであるとか、岩井俊二くんであるとか、塚本(晋也)くんはすでに『野火』(2015年)という映画であるとか、あの優秀な人たちが戦争映画を戦前派として撮りはじめた。これも、今の時代ですね。僕の感覚からいうと、戦前と戦後がつながったんです。だから、僕が昔の戦争の体験を語っても虚しいだろうということであまり語ることのなかった。むしろ、それを背後に忍ばせて、せめて「今生きてるお前は生きているが、死んでしまったあの人の方がよっぽど生きているぞ」というテーマで映画を作ってきたわけです。3.11の後は、もう少し正直にそのことをメッセージとして、いえるようになってきているということは、僕たちの敗戦後が過去のノスタルジーでも、カタルシスでもなくて、「未来の平和の時代をつむぐ」ために役立つ一つの記憶であり、「過去と未来とがつながった今」ということを考えれば、僕たちの過去の体験がそれをきっちりと伝えることが未来の戦争をなくし、平和に近づけていくことに役立つ。つまり、「僕たちの歴史は変えられないけれども、あなたたちの歴史は変えられるぞ」「きっと映画の力で変えられることができるぞ」ということで、若い人たちを送り出したい。私たちも、生きている以上は、それまでの間、過去と未来とつなぐためにこの今を一生懸命に映画を使って生きていこうと思っている。ということが大きな意味での僕の次回作の構想になるわけですね。

◻️映画なんていらない平和な時代が来るまで映画を作る

どうもお忙しいところ、ありがとうございました。とくにこの尾道というところで、こういうお話が心を開いて語れるということは、とても素晴らしいことですが、逆にいえば、とても恐ろしいことでもありますね。うちの父親がいつもいっておりましたが、「お父さんは医者になったからといって、それで名をあげようとか、生活を豊かにしようなんて思ったことは一度もないぞ。だって、世の中が平和でみんな健康であったなら、医者なんかいらないじゃないか。それが一番、医者にとっての願いなんだよ」と。「だから、世の中から、医者がいらない平和な時代になるまでお父さんは一生懸命、医学の道を歩んでいるんだ」と。その真似です。世の中が本当に平和で、空が青くて、空気が澄みきって、芝生が緑で、家族が健康であれば、みんなで芝生に寝転んで、手をつないで、青い空を見ながら、空気をいっぱい深呼吸して吸って寝転んでいることができれば、映画なんかいらないじゃないですか。そういう時代が来るまで、映画を使って、一生懸命、そういう映画なんていらない時代が来るまで、私も、それに続く若い人たちも、その続きをやってほしい。

◻️平和な時代を作ることができると信じて映画の道を歩んでいる

それが戦争を体験し、人生そのものを滅茶苦茶にされた、そのことを何も表現できないまま逝ってしまった小津安二郎であり、黒澤明であり、木下恵介であり、今井正であり、マキノ雅弘であるという私たちの先人。みなさん、もう一度、『東京物語』(1953年)を観てくださいよ。これは、山田洋次さんが発見したのですが、山田さんも松竹の後輩ですから、「小津は、戦争なんか関係のない娘が嫁にいく、どうするかみたいな話ばかりやっていて、鎌倉文士みないな映画ばかり作っていて、何の役にも立たないじゃないか」と小津さんもいわれた時期があるんです。松竹の若い大島(渚)さんはじめ、山田洋次さんに至るまでが、小津さんのことをそう思っていたのですが、山田さんが松竹映画では家族映画しか撮れないことがあるので、よくできた『東京物語』を映画にしようと思って『東京家族』(2013年)というシナリオを書いてクランクインをしようと思った瞬間に、3.11が起きてしまったんです。そのときにお電話をいただいて、「大林さん、『東京物語』を見直したら、すべてのカットに戦争が写っていた。僕、それを発見してビックリして、これから僕が作る『東京家族』には、すべてのカットに放射線が写っていなければ映画を作る意味なんてないってことが小津さんの映画から分かりました。だから、僕は、すべてのカットに放射線が写ることができる力を僕が持つまで、この映画は延期します」といわれて、1年間延ばされたんです。松竹の後輩の山田さんがそういう風に発見されたということは、小津映画には、実は戦争がずっと忍び込んでいて。それは、小津さんもこういう言葉があって、今になってそれは本当に重要な言葉になっているのですが、「目の前にあるのもは、受け入れざるおえないではないか」、目の前にあるものは戦争のことですよ。だから、小津さんの日本軍部から与えられた仕事として、フィリピンまで「日本勝つぞ敵木っ端微塵に蹴散らすぞ」という映画を撮りにいらっしゃるところまでは大日本帝国の国民としていらっしゃる。でも、その現場で「よーい、スタート」と声をかけて、キャメラをまわすのは国家でも、誰でもない小津安二郎個人である。ということで、ワンカットも撮らなかったというのが小津さんなんですね。だから、もし、我われが小津さんを世界に誇る監督だとすれば、当然、戦争の中を生死を生きた方であるから戦争も描かれている。しかし、その小津さんの戦争映画はワンカットも撮らないことが小津さんのフィロソフィーであった。ということは、戦争の我われ先人の表現は何も残されていない。小津さんのその想いだけが『東京物語』の中に怨念のように断念と覚悟のように忍び込んで、思えば「あの中で原節子さんだけがちょっとエロキューションが違って変だな」と思ったら、原節子さんだけが廊下の奥に立っている戦争をほぼ感じていたんですね。他の人たちは敗戦後のモノカネ時代を能天気に生きていた。それが「家族の崩壊にも、日本の崩壊にもつながるぞ」ということが敗戦後の小津さんの戦争映画であったと、3.11以降に分かってくるわけなんです。だから、檀一雄さんの原作だって、戦争のことはひと文字しかないんですよ。「お母さん、今だったら、僕は戦争にだって行きますよ」、これは小説の中では、勇気の証として書かれていますが、そのひと言しか戦争を書けなかった。というのが、檀一雄さんの同じ時代を生きた人の断念と覚悟であって、つまり、僕たちの後続世代は何も表現をしなかった。

しかも、占領国と国家は、その戦争すらなかったとして日本国民を育ててきた。僕たちが学んだ歴史の教科書に太平洋戦争は出てきません。なぜか明治維新で終わっているんですよね。それは、GHQから「日本人には戦争のことは早く忘れさせよう。できれば、子どもたちには戦争はなかったことにしなさい」というお達しが1946年に出ているんです。そんなわけで、私たちは戦争を知らないまま生きてきた。そのことを伝えられるのは映画であり、しかも、それを伝えることができるのは、あの嫌な思いを実感した子どもだから、余計に実感していた子どもである私たちがようやくこの歳まで生きて、世間が耳を傾けてくれて伝えることができるようになったということは、今がまさに父親がいう、悲しいかな映画が必要な時代なんですね。だから、父親が一生懸命に敵の命も救うことができるかもしれないといって戦争に赴いたように、私も映画によっていつか世界から戦争のない平和な時代を作ることができるかもしれないと信じて、映画の道を歩んでいるということですので、ぜひこれは広島の人たちと尾道で語っている話の締めくくりとして、それはみなさんにお伝えをして、お願いをしたいなという風に思いますので、よろしくお願いいたします。どうも、今日はありがとうございました。

◼️記者会見を終えて

記者会見では、映画作家・大林宣彦監督は、正直な心の声をひと言ひと言、丁寧につむぎながら、幼少期の戦争体験や両親、先人の映画人たちからの影響、これまでの映画作りなどをふまえて、約60分にわたって自身の映画人としての存在意義や映画の可能性について語った。fm GIG シネマ侍では、大林監督のスピーチを真摯に受けとめて、「尾道映画祭2018」にて上映される『花筐/HANAGATAMI』舞台挨拶およびトーク、「大林宣彦青春回顧録」対談、『HOUSE/ハウス』トーク、『野ゆき山ゆき海べゆき』トーク、『マヌケ先生』トーク、「車座シンポジウム:映画を使って僕たちは何ができるか」のレポートも掲載予定である。


◼️映画作家・大林宣彦監督

1938年広島県尾道市生まれ。幼少の頃から映画を撮り始め、大学時代に自主制作映画のパイオニア的存在となる。CMディレクターとして手がけた作品は3000本を超える。映画監督として、日本の映像史を最先端で切り拓いた、まさに「映像の魔術師」。1977年に『HOUSE/ハウス』で商業映画に進出し、80年代の「尾道三部作」は世代を超えて熱狂的な支持を集めた。「同じことは二度としない」と公言。大林監督のフィルモグラフィは1作ごとに異なる実験が行われている。90年代には実験精神溢れる「新・尾道三部作」を製作。近年では、強い反戦の思いを込めた「大林的戦争三部作」を製作。

自主製作映画『ÉMOTION=伝説の午後・いつか見たドラキュラ』(1967年・16㎜)が全国の画廊や大学で上映されて高評価を得る。『喰べた人』(1963年)はベルギー国際実験映画祭審査員特別賞を受賞。『HOUSE/ハウス』(1977年)で商業映画に進出。自身の古里・尾道を舞台にした『転校生』(1982年)、『時をかける少女』(1983年)、『さびしんぼう』(1985年)は「尾道三部作」と称されて世代を超えて親しまれる。『異人たちとの夏』(1988年)で毎日映画コンクール監督賞、『北京的西瓜』(1989年)で山路ふみ子映画賞、『青春デンデケデケデケ』(1992年)で平成4年度文化庁優秀映画作品賞、『SADA』(1998年)で第48回ベルリン国際映画祭国際批評家連盟賞、『理由』(2004年)では日本映画批評家大賞・監督賞、藤本賞奨励賞を受賞。『この空の花〜長岡花火物語』(2011年)、『野のなななのか』(2014年)、最新作『花筐/HANAGATAMI』(2017年)は「大林的戦争三部作」となり、第72回毎日映画コンクール日本映画大賞、同美術賞、第91回キネマ旬報ベスト・テン 監督賞を受賞。2004年春の紫綬褒章受章、2009年秋の旭日小綬章受章。


[スチール写真/文:おくの ゆか]


◼️『花筐/HANAGATAMI』(2017)

≪ストーリー≫
1941年春、アムステルダムに住む両親の元を離れて佐賀県唐津に暮らす叔母(常盤貴子)の元に身を寄せることになった17歳の榊山俊彦(窪塚俊介)。アポロ神のように雄々しい鵜飼(満島真之介)、虚無僧のような吉良(長塚圭史)、お調子者の阿蘇(柄本時生)らの学友を得て「勇気を試す冒険」に興じる。肺病を患う従妹の美那(矢作穂香)に恋心を抱きながらも、女友だちのあきね(山崎紘菜)や千歳(門脇麦)と「不良」なる青春を謳歌。しかし、我が「生」を自分の意志で生きようとする彼らの純粋で自由な荒ぶる青春のときは儚く、いつしか戦争の渦に飲み込まれてゆく。「殺されないぞ、戦争なんかに!」俊彦はひとり、仲間たちの間を浮き草のように漂いながら、自らの魂に火をつけようとするが。
写真:©︎ 唐津映画製作委員会 / PSC
監督・脚本:大林宣彦
製作:辻幸徳(唐津映画製作委員会)、大林恭子(PSC)
協力:檀太郎
原作:檀一雄「花筐」(講談社・文芸文庫)
音楽:山下康介
撮影監督:三本木久城
美術監督:竹内公一
照明:西表燈光
録音:内田誠
編集:大林宣彦、三本木久城
整音:山本逸美
監督補佐:松本動
エグゼクティブプロデューサー:大林恭子
プロデユーサー:山﨑輝道
出演:窪塚俊介、満島真之介、長塚圭史、柄本時生、矢作穂香、山崎紘菜、門脇麦、常盤貴子
製作年:2017年
製作国:日本
配給:新日本映画社
上映時間:169分
映倫区分:PG12
カラー/DCP/アメリカンヴィスタ
映画公式サイト:http://hanagatami-movie.jp/
映画予告編
全国順次公開中!!

















0コメント

  • 1000 / 1000